プログラミングを褒められるよりも、自分が書いた文章を褒められることの方が、ずっと嬉しい。
エンジニア失格なエンジニアだ。
それだけ文章というものには、自負があるのだろう。
逆説的に、というかなんというか、自分が褒められて嬉しい物事には、つまり自負がある、これは確実だ。
たとえば妻から顔を褒められても、なかなかに嬉しい。
世の中のナチュラルボーンなイケメンたちから比べれば、大した顔骨格ではないだろうけれども、それでも自分の顔というものには、なかなかの愛着があるようだ。
Twitterでプロフィール画像を消した日も、なかなかの寂しさがあった。
たまにInstagramで自分の自撮り写真を眺めては、自分と恋に落ちられそうだなと思っていたりする。
しかし愛着があるものから離れるのも、禅の修行である。
たとえ今よりも明晰なキーボードタッチを失い、容貌を失い、エンジニアという職業を失い、頭は朦朧として、1日に1秒ほどしか、禅と出会えなくなったとしても、僕はそれでも、禅を保てるのだろうか。
物事の極限まで、ついつい考えてしまうのは、悪い癖ではあると思う。
つらつら。
ja
プログラミングを褒められるよりも、自分が書いた文章を褒められることの方が、ずっと嬉しい。エンジニア失格なエンジニアだ。それだけ文章というものには、自負があるのだろう。逆説的に、というかなんというか、自分が褒められて嬉しい物事には、つまり自負がある、これは確実だ。たとえば妻から顔を褒められても、なかなかに嬉しい。世の中のナチュラルボーンなイケメンたちから比べれば、大した顔骨格ではないだろうけれども、それでも自分の顔というものには、なかなかの愛着があるようだ。Twitterでプロフィール画像を消した日も、なかなかの寂しさがあった。たまにInstagramで自分の自撮り写真を眺めては、自分と恋に落ちられそうだなと思っていたりする。しかし愛着があるものから離れるのも、禅の修行である。たとえ今よりも明晰なキーボードタッチを失い、容貌を失い、エンジニアという職業を失い、頭は朦朧として、1日に1秒ほどしか、禅と出会えなくなったとしても、僕はそれでも、禅を保てるのだろうか。物事の極限まで、ついつい考えてしまうのは、悪い癖ではあると思う。つらつら。